信頼は自分が作り上げた妄想の柵

例えば、あなたがA君に恋をしたとします。

『A君、大好き。ずっと一緒にいようね。この気持ちは変わらないよ!』

でも、その後、B君と出会って同じことを思い、しばらくするとC君と出会って同じことを思い・・・

極端な話ですが 『命かけても』と思った相手でも、時が過ぎ環境が変われば、『あなたのためには死ねない』になってしまいます。

そう、絶対と言った自分の気持ちさえ、簡単に変わってしまう。

悲しいかな、自分の気持ちでさえ信じられない。

自分を信じられないのに、人を信じることができるでしょうか?

 

人間は確かなようで、とっても危うい感情の橋を渡りながら生きています。

少しの風でもあちこちに揺れます。

『裏切られた』『信じられない』・・・ そうやって人を判断するのは簡単です。

でもそれは、その人の意見だけではなく、環境が縁となって現れた結果にすぎないんです。

 

人はどうして、人を信じたいのでしょうか?

そもそも、何を持って信じるというのでしょうか?

少し乱暴な言い方ですが、自分に都合が良いことは信じて、都合の悪いことは信じないのではないでしょうか?

買い物でも 『ここのお店は信用している』 と言うのは、そのお店のポリシーが自分の考えに合う、つまり、自分にとって都合がいいんです。

 

『信じる』というのは、とてもキレイに響く言葉ですよね!

でも、信じることによって相手を自分の中で、私の信じている範囲の行動をするだろうと、精神的に縛ってはいませんか?

その見えない柵から相手が出てしまうと 『裏切られた』『信じていたのに』となって、苦しんでしまいます。

わざわざ自分が苦しむために、柵を作る必要があるんでしょうか?

結局は他人のために作った柵に、自分の心が囚われてしまうんです。

所有は、苦しみの始まりです。

失う恐怖が、常につきまといます。

そもそも他人を所有することはできません。

これは、肉体的にも精神的にもです。

私たち人間は、信じたくても信じられない、危うい存在なんです。

その危うい自分が、同じく危うい他人と向き合い、出会っています。

その出会いを喜ぶことが少しでもできたら、見えない柵を未来に作ることもないのかもしれません。

 

感謝